狭間とは、井筒と棟をつなぐ斗組の間に取り付ける彫刻のことをいいます。狭間の彫刻は一般的に表・中板・奥板の3枚で構成され遠近法を用いた立体彫刻になっています。地区によっては1枚の板から彫刻された狭間もあり、「丸彫り」とか「一刀彫り」と呼ばれています。狭間の図柄は、神話や歴史上の物語・英雄豪傑を描いた合戦もの・地元の由緒や珍しいところでは日露戦争を描いたものなどがあります。彫師の松本義廣や堤義法に代表される飾磨彫刻はとりわけ多くの名作が作られています。構の狭間はその飾磨彫刻師・堤義法の作品で「鶴岡八幡宮方生会」「布引四段目小桜責め」「巴御前の勇戦」「村上義光錦旗奪還の場」の四場面です。
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鶴岡八幡宮放生会(つるがおかはちまんぐうほうじょうえ)
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鶴岡八幡宮は、源氏の総氏神として鎌倉に鎮座する名社で、源頼義が前九年の役の戦勝の礼として京都の石清水八幡宮の分霊を勧請して創祀したと伝えられている。その後、永保元年(1081)には源義家が社殿を修復し、治承四年(1180)には、鎌倉入りした源頼朝によって、由比郷から現在の地に遷宮された。建久二年(1191)に焼失したため、頼朝は大規模な造営を施行。鎌倉幕府による行事や儀式を執行する中心的役割を担った。鶴岡八幡宮の放生会は、「吾妻鑑」によると文治三年(1187)八月十五日に源頼朝によって始められたという。その時、鶴岡八幡宮から千羽の鶴が放されたという。放生会とは、仏教の殺生を戒める殺生戒の思想に基づき捕らえた生類を放つ儀式のことで、養老四年(720)に九州の宇佐八幡宮で始まり、全国各地の八幡社に広まったと伝えられている。 |
平氏打倒を密議した鹿ヶ谷事件関わっていた後白河法皇は、清盛と対立。治承三年(1179)病で亡くなった清盛の長男重盛の知行国をめぐって清盛の怒りはピークに達し、ついに後白河法皇の院政を停止し鳥羽離宮に幽閉してしまった。多田蔵人行綱は、後白河法皇を救出するため松波検校という琵琶法師に身をやつし鳥羽殿に潜入する。 鳥羽殿には、行綱の娘小桜が奉公人として仕え、平氏の動きを伺っていた。検校になりすました行綱は、娘・小桜に館の奥に案内させた。実はこの離宮には3人の平家方の武士も潜入していた。庭では、平次、又五郎、藤作の三人の仕丁が、紅葉を焚いて暖をとり酒盛りをしていた。(物語ではこの三人は怒り上戸、泣き上戸、笑い上戸という性格で笑いの一幕を演じている。)やがて、酔った怒り上戸の平次は小桜を捕まえ、検校になりすました行綱の前で、父の名前を言えと小桜を縛り上げ折檻をはじめた。行綱は拷問される娘を前に平静を装うが、平次から一曲を所望され琵琶を弾くが心の乱れが表れてしまう。その様子を見た平次は、琵琶法師が行綱であることを見破り斬りつけた。実は平次は平家方の武士・難波六郎であった。平次の攻撃を交わした行綱は、小桜を抱いて紅葉山に逃れた。
*源平布引滝 |
布引四段目小桜責 (ぬのびきよんだんめこざくらぜめ)
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巴御前奮戦(ともえごぜんふんせん)
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1183年、加賀・越中国境の倶利伽羅峠(くりからとうげ)の合戦で十万の平氏軍勢を破って木曽義仲は京入りを果たした。巴は義仲軍の将として数々の戦功を挙げる。義仲は、後白河法皇から「朝日将軍」の称号を贈られたが、義仲軍の京での乱暴・狼藉・略奪には目を覆うものがあり、人々は「平家の時代の方がましであった。」と口々に嘆いた。事態を憂えた法皇は頼朝に義仲追討の院宣を出す。そして義仲はついに入京6ヶ月で頼朝の差し向けた範頼・義経軍に宇治川の戦いで大敗する。義仲は京を追われ巴御前以下数十名の手勢で山科を経て近江へと向かった。乳兄弟・今井兼平と合流した義仲は、近江・粟津原で最期の合戦に臨む。巴は義仲とともに討ち死にを考えていたが、義仲に「最期の戦いに女を連れていたといわれるのは口惜しい」と説得され、ひとり敵中に突入し勇猛果敢に奮戦、東国へと落ち延びて行った。楯親忠、手塚光盛も討たれ、今井兼平と主従二騎になった義仲は粟津の松原へと自害に向かったが、馬が深田にはまり、石田次郎為久の放った矢が兜の内側に刺さり討ち取られた。それを見た兼平は「日本一の剛の者が自害の手本ぞ」と、太刀の切っ先を口に入れ、馬から逆さまに飛び落ちて自害した。 |
笠置城陥落後、山伏姿に身をやつして熊野から十津川に逃れていた大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)の一行は、さらに高野へ逃れようとしていた。途中、敵方の土豪・芋瀬庄司に遭遇し、親王一行はその通行を乞うた。すると芋瀬は、幕府へ面子のため、通行を許可するかわりに名のある家臣を人質として要求してきた。そこで赤松則祐(あかまつそくゆう)が「主君の危機に自らの命を投げ出すことこそが臣下の道。」と人質となることを名乗り出るが、平賀三郎が「宮の御為にも今は有能な武将は一人たりと失ってはならぬもの、御旗を渡して激闘の末逃げ延びた事にすれば芋瀬の面子も保てもしょう。」と一計を案じ大事な錦の御旗を芋瀬に下して、何とか難所を切り抜けた。一行から一足送れて後を追っていた村上義光は錦の御旗を担いだ芋瀬たちと出くわす。「なぜ錦の御旗が?」と怪しく思った義光は思わず呼び止めた。すると突然、太刀を抜き斬りかかってきた武士たちを、「刀は面倒だ。」とばかりに投げ倒し、ある者は数メートルも投げ飛ばされてしまった。これは敵わぬと芋瀬たちは御旗を置いて一目散に逃げていった。見事、御旗を奪い返した義光は親王の元へと馳せ参じた。
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村上義光錦旗奪還(むらかみよしてるにしきのみはただっかん)
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