露盤 |
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平 知盛(たいらのとももり) 1151~1185年
平清盛の四男。従二位権中納言。知章の父。兄重盛、父清盛の死後、三男の宗盛が平家の総帥となり、これを軍事面の最高責任者として兄を補佐した。教経とともに平家きっての強の者。平家物語では入水の場面とともに、一ノ谷の合戦で16歳の息子知章が追手から自分を守るため討ち死にするのを見捨てて海上に逃れ「よくよく命は惜しいもの」と涙ながらに語り、一族の軍事責任者としての立場と一人の父親としての立場の間で苦悩する場面が有名。
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壇ノ浦の戦い
文治元年(1185年)3月24日、屋島で敗れ、彦島(山口県下関市)に拠った平家軍に義経軍が攻め込んだ。開戦当初は、もともと海戦を得意とする平家が有利な潮流も味方につけて優勢だったが義経は当時の戦闘におけるタブーを破り、敵船の水手(かこ)・梶取(かんどり)=漕ぎ手、などの非戦闘員に対しての攻撃を行い相手の船足を止め、さらに潮流の変化の激しい関門海峡の流れも今度は源氏方に有利に流れはじめ平家は劣勢となる。平家方不利と見た将兵も次々源氏方に寝返り始め、もはや命運尽きたと悟った平教経が入水する。それに続き二位ノ尼も安徳天皇を抱き「海の下にも都はございましょう。」と三種の神器を持ったまま入水、以後平氏一門相次いで入水する。知盛は「見るべきものは全て見た。今はただ自害しよう。」と鎧二領を身に着けて入水する。総大将の平宗盛も入水するが、妹・建礼門院徳子と共に救い出され生け捕りにされる。その後、宗盛は鎌倉へ護送されて斬首。建礼門院は京都大原で平家の菩提を弔いつつ生涯を終える。
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天莫空勾践時非無范蠡
(てん、こうせんをむなしゅうするなかれ、ときに、はんれいなきにしもあらず)と読む。
「陛下、勾践のように囚われの身となっておられますがご心配なさいますな。(勾践を救い出した)范蠡ともいうべき家臣がここにおります。」というふうな意味。
この詩は、越王勾践(えつおうこうせん)の故事に因んだもの。越国は中国春秋時代の「呉越同舟」の語源となった国。勾践は国王で、范蠡はその名臣。勾践は范蠡の反対を押し切り呉軍と会稽山の戦いに臨んだが大敗し、勾践は囚われる。范蠡は国力の回復を図り呉に戦いを挑んでついにこれを打ち破って主君を救出した。
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児島高徳(こじまたかのり) 1311年~1382年生まれ
応長1年(1311)備前児島生まれ。和田備後守範長の子。晩年は大泉の小海(現在の高徳寺)居を構え児島三郎入道志純と名乗った。太平記の作者の一人との説もある。
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武蔵棒弁慶(むさしぼうべんけい) ****年~1189年
父は熊野別当弁証(義経記)、その出生は母胎内に18ヶ月もいて、生まれた時には髪は肩まで伸び、歯も既に生え揃っていたという。その姿に鬼若と名付けられた。比叡山延暦寺西塔の僧正「くわん慶」に預けられるが成長とともに乱暴を繰り返し、ついには比叡山を追放される。その後、自ら剃髪、実父の弁証の「弁」と師の「慶」をもらって弁慶と名乗り、さらに、昔比叡山に西塔の武藏坊と号した悪僧がいたのにあやかって、武藏坊弁慶(むさしぼうべんけい)と称した。比叡山を下りた弁慶は、西の比叡山とも呼ばれる播磨国姫路の書写山円教寺へ入る。ここでも相変わらず乱暴を繰り返した弁慶はついに堂塔を炎上させてしまう。千本の刀剣集めはこの堂塔の再建のためであったとされる。義経の家来となった弁慶は以後片時も離れず義経に同行、ついには衣川の戦いで戦死する。この戦死時のエピソードは「弁慶の立ち往生」として有名である。弁慶はその勇猛さと多くの荒々しいエピソードから「西塔鬼若丸の鯉退治」や「三井寺の弁慶引き摺り鐘」など義経同様、多くの屋台彫刻や刺繍のモチーフとなっている。
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源義経(みなもとのよしつね) 1159年~1189年
父は清和源氏の祖である経基六代の孫為義の長子・源義朝、母は九条院雑司・常磐(ときわ)。義朝の九男で頼朝とは異母兄弟、幼名は牛若、のち遮那王。熱田神宮で元服後源九郎義経。判官、伊予守。1159年、父、義朝が平治の乱で平清盛に破れ敗走中、家臣に裏切られ謀殺。母共々吉野に逃れるが、祖母を捕らえられ母常盤は清盛の元に出頭する。通常皆殺しにされるところを常盤の美貌と清盛の母・池禅尼の嘆願で助かる。兄・頼朝は東国に配流、母常盤は清盛のものになり、牛若ら3人の子どもは仏門に入ることで赦免された。牛若は7歳になったところで鞍馬山の別当東光坊に預けられた。ある夜、牛若のもとに正門坊と名乗る僧が現れ、牛若の素性を伝える。自らの素性を知った牛若は、夜な夜な密かに寺を抜けて武芸の腕を磨いた。この頃名を牛若から遮那王に改めている。16才の頃、吉次信高と名乗る者が遮那王のもとに訪れた。吉次は奥州藤原氏と親交が深く、藤原秀衡が会いたがっていることを伝えた。遮那王は即、鞍馬山を下る事を決断する。奥州へ向かう途中、熱田神宮で元服を済ませ、名を源九郎義経と改めた。奥州藤原氏庇護のもと成長した義経は頼朝の挙兵に呼応、黄瀬川にて兄弟の対面を果たし、平家討伐軍の副将として一の谷・屋島・壇ノ浦の戦いなどでめざましい活躍を見せる。平家滅亡後、後白河法皇より無断で官位を受けたことで頼朝の勘気を買い追われる身に。藤原氏頼り再び奥州へと向かう。(歌舞伎で有名な「勧進帳」はこの逃亡中のエピソード。)平泉に逃げ込んだものの秀衡の死後、頼朝の追及をうけた泰衡の裏切りに遭い衣川館で自刃する。昔から「判官贔屓」といわれるように人気のある義経は「鵯越の逆落とし」や「八艘飛び」・「弓流し」など多くの彫刻や刺繍のモチーフになっている。
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源為朝(みなもとためとも) 1139年~1170年
源為朝は為義の八男で強弓の剛勇武者として知られている。幼少の頃から体が大きく乱暴者で、困り果てた父の為義によって13歳の時に九州へ追放された。しかし、為朝は三年もたたないうちに九州の豪族たちを鎮圧し、勝手に鎮西(ちんぜい)の惣追捕使(そうついぶし)を名乗り、鎮西八郎と称した。為朝の狼藉に我慢できなくなった九州の豪族たちの訴えにより、朝廷はすぐさま為朝に召還を命じたが、これに応じなかったため、父・為義は官職を解かれてしまう。さすがの為朝もこれを知り、父の弁明のため都へ戻った。この頃、都では崇徳上皇と後白河天皇の間が険悪になり、ついに保元元年(1156)保元の乱が起こる。為朝は父・為義と共に崇徳上皇についたが、長男の義朝は、平清盛らと共に後白河天皇の側についた。為朝は得意とする強弓で奮戦し、後白河方の兄・義朝や清盛軍を圧倒するが、御所に火が放たれ、崇徳院側はあえなく敗走してしまった。父・為義は捕らえられ斬首。為朝も近江まで逃れたところで捕らえられ、弓が持てないよう両腕の筋を切られて伊豆大島に配流された。その後、切られた筋は回復し為朝は、伊豆の島々を制圧するも、朝廷より追討軍をさし向けられる。為朝は強弓にて応戦したが、最後は勅命に反して戦い多くの人命を傷つけることを憂い自刃して果てた。 |
狭間 |
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放生会(ほうじょうえ)
放生会とは、仏教の殺生を戒める殺生戒の思想に基づき捕らえた生類を放つ儀式のことで、養老四年(720)に九州の宇佐八幡宮で始まり、全国各地の八幡社に広まったと伝えられている。部族抗争を戦い抜いていた時代、武士は常に殺生の穢れや殲滅した敵の霊に恐れおののいていた。放生会で生類を解き放つ行為は、殺生の穢れや罪から逃れ、敵の悪霊も鎮めることが出来、仏教の教えにも背かないと考えられ盛んに行われた。
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多田蔵人行綱(ただくろうどゆきつな) ****年~****年
源行綱(みなもとゆきつな)、源頼盛の長男で、正五位下、蔵人、伯耆守。摂津多田庄に住んだ源氏なのでこの姓を名乗る。多田満仲(源満仲・摂津源氏の祖)より数えて八代目。
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源平布引滝 (げんぺいぬのびきのたき)
寛延2年(1749)11月大坂竹本座で初演された、浄瑠璃。並木千柳・三好松洛合作で、全五段で構成され初段の内容からこの名が付いた。四段目は、音羽山の段、松波琵琶の段、紅葉山の段から構成され、後白河法皇が幽閉されている鳥羽殿でのやりとりが演じられている。
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巴御前(ともえごぜん) ****年~****年
木曽(源)義仲の愛妾。中原兼遠(なかはらかねとお)の娘、樋口兼光、今井兼平らの妹。四人は乳兄弟(妹)でもある。平安時代末期、女性ながら薙刀で戦った男勝りの武将で、美貌と武勇で知られるが、「平家物語」・「源平盛衰記」にわずかに記録が残るだけで詳しい事は分からない。
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村上義光(むらかみよしてる) ****年~1333年
村上彦四郎義光、信濃源氏の一族で元弘の乱に護良親王に従う。その最期は、元弘3年吉野が幕府軍に攻められて陥落が近づいた時、親王の身替わりになるため親王の鎧を身にまとい敵中へ躍り出て割腹し、親王を落ち延びさせた。 |
高欄掛け |
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「以津真天(いつまで)」
「以津真天(いつまで)」とは怪鳥の名で、「イツマデ、イツマデ」と鳴くことから。
戦乱や飢えで死んだ人の死体をいつまでも放置すると、いつまで死体を放っておくのかという呪詛を込めて「イツマデ、イツマデ」と鳴くようになり、人の死体を喰い漁る怪鳥。
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加藤清正(かとうきよまさ) 1562年~1611年
永禄5年(1562)尾張国愛知郡中村に加藤清忠の次男として生まれる。5歳の時より、のちの豊臣秀吉に仕え、15歳で元服。天正9年(1581)20歳で因州鳥取城攻めに初陣。天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで先陣をきり、「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられる。天正16年(1588)肥後半国を領して熊本城を居城とする。その後、文禄の役・慶長の役(朝鮮出兵)に参戦し、慶長5年(1600)関ケ原の合戦では東軍に属し、戦後、肥後一国と豊後の一部の五十四万石を領した。慶長16年(1611)6月24日、49歳で熊本城においてこの世を去った。 |
井筒金物
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近江八景(おうみはっけい)
近江八景とは近江の国(滋賀県)琵琶湖南部の湖畔にみられた八つの景勝で、欄間彫刻などでよく見られる題材です。近江八景は中国の北宋の宋迪(そうてき)が描いた「瀟湘八景」(平沙落雁、遠浦帰帆、山市晴嵐、江天暮雪、洞庭秋月、瀟湘夜雨、煙寺晩鐘、漁村夕照)を模して明応九年、近衛政家が選定したといわれます。三井の晩鐘、唐崎の夜雨、堅田の落雁、粟津の晴風、矢橋の帰帆、比良の暮雪、石山の秋月、瀬田の夕照の八つです。
個々の八景の特徴は、
三井の晩鐘(みいのばんしょう) 寺院、鐘楼があります(三井寺)
唐崎の夜雨(からさきのよつゆ) 鳥居と社殿があります(唐崎神社)
堅田の落雁(かただのらくがん) 浮御堂があります。(水上に建つお堂、満月寺)
粟津の晴嵐(あわづのせいらん) お城があります。(膳所六万石の膳所城)
矢橋の帰帆(やばせのきはん) 帆掛け舟があります。
比良の暮雪(ひらのぼせつ) 山があります。(比良山)
石山の秋月(いしやまのあきづき)京都清水の様な舞台があります。(石山寺)
瀬田の夕照(せたのせきしょう) 橋があります。(瀬田川に架かる唐橋)
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安倍泰成九尾の狐退治(安倍のやすなりきゅうびのきつねたいじ)
最初は藻女(みずくめ)と呼ばれ、子に恵まれない夫婦の手で大切に育てられ美しく成長した玉藻前は18歳で宮中に仕え、のちに鳥羽上皇の女官となったが次第に上皇の寵愛を受けるようになり、契りを結ぶこととなった。ところが、玉藻前と契りを結んだ後上皇は次第に病に伏せるようになる。お抱えの医者が診察しても原因が何なのか分からなかったが、陰陽師・安倍泰成によって病の原因が玉藻前であることが分かり、その正体が九尾の狐であることを暴露された玉藻前は白面九尾の狐の姿で宮中を脱走し行方をくらました。その後、那須野で婦女子をさらうなどの行為が宮中に伝わり、鳥羽上皇は三浦介義明と上総介広常という武士を将軍に、陰陽師・安倍泰成を軍師に任命し8万余りの軍勢を派遣した。苦戦の末、三浦介の放った矢が九尾の狐の脇腹と首筋を貫き、上総介の長刀が切りつけたことでついに息絶えた。だが九尾の狐は直後に大きな毒石に変化し、近づく人間や動物の命を奪った。そのため、人々は後にこの毒石を殺生石と名づけ恐れたという。
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玉藻前(たまものまえ)
平安時代末期、鳥羽上皇に仕えた白面金毛九尾の狐が化けた架空の絶世の美女。鳥羽上皇が院政を行った1129年から1156年の間に活躍したといわれ、20歳前後の若い女性でありながら、大変な博識と美貌の持ち主であり、天下一の美女とも国一番の賢女とも謳われた。玉藻前のモデルは、鳥羽上皇に寵愛された皇后美福門院(藤原得子)であり、摂関家などの名門出身でもない彼女が権勢を振るった史実が下敷きになっているとも言われる。
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厳島神社(いくつしまじんじゃ)
宮島の景観は太古の昔から、島全体が神として崇められ、厳島神社は、推古天皇即位元年の593年に創建されたといわれる。久安二年(1146)に安芸守となった平清盛は、平家一門の氏神として厳島神社への信仰を深め、仁安三年(1168)に現在の規模を誇る社殿が造営されたと伝えられている。厳島神社の御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の宗像(むなかた)三女神であるが、神仏習合により美人の誉れ高い市杵島姫命はインドの神様・弁財天と同一視されている。津田天満神社には大正9年に構の先人が勧請した厳島神社が摂社として祀られている。
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平清盛の日招き(たいらのきよもりのひまねき)
清盛の権勢を誇張する伝説として「日招き」がある。清盛の日招き伝説は諸説あるが、最も語られているのは、音戸の瀬戸での日招きであろう。音戸の瀬戸は、広島県呉市の本州と倉橋島の間にある海峡のことで、その幅は九十メートル程と狭く、そのため潮流が激しく瀬戸内海有数の難所といわれている。ここを開削したのが平清盛と伝えられ、市杵島姫と一日でこの難所を開削することを約束した清盛は、近郷から多数の工員を集め、「恩賞は望みのままぞ。ただし工事は一日で仕上げよ」と命じた。工事半ばで潮が満ち、掘削した堀に潮が流れ込むと、清盛は「海の神、市杵島姫のために行う我が仕事をなぜ邪魔をする」と、満ち寄せる潮を睨みつけると、潮が引き去ったという。あと少しで工事が完成しようとした頃、太陽は西に傾き日没が迫っていた。市杵島姫との 誓いが果たせなくなると思った清盛は、沈み行く太陽に金扇をかざし、「日輪よ、我は清盛である。わが権威を恐れないか。さあ返せ、返せ」と叫んだ。すると沈みかけた太陽が天空に戻り、再び沈む頃には工事が完成し、市杵島姫との誓いを果たしたという。
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