露盤は、神輿屋根型屋台の最上部にある擬宝珠を支える台座のことをいいます。擬宝珠は神の依り代とされ、それを支える露盤には、邪気を払い擬宝珠を守護するといった意味があり、そのため彫刻の構図には四神や金剛力士・龍や虎など、又、退治物や合戦物・歴史上の豪傑など力強い威勢のよいものが好んで使われます。露盤は金箔などの彩色場合が多く、白木のまま使用されている所は少数です。また、時代や地区によっては錺金具で製作された露盤もあります。構の露盤は、「碇知盛」「忠臣児島高徳」「五條大橋」「鎮西八郎為朝の強弓」の四場面です。政策は青山の井上準司氏です。
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碇 知盛(いかりとももり) |
平家敗亡の戦いとなった壇ノ浦の戦いでの平知盛の最期は、平家物語では「見るべき程の事は全て見つ。今は自害せん。」と叫んで、鎧を二領着て入水(じゅすい)したことになっています。屋台彫刻に於ける碇綱を体に巻きつけ大碇を担ぎ上げて今まさに入水せんとする知盛は「碇知盛」として知られていますが、碇知盛の物語は、平家物語の感動的な最期が後に美談かされ能や浄瑠璃・歌舞伎などの古典芸能に取り入れられその中から生まれたものです。知盛が碇を担いで入水する場面は、能『碇潜(いかりかづき)』と浄瑠璃・歌舞伎の『義経千本桜』に登場します。『義経千本桜』では、壇ノ浦で入水したはずの知盛が渡海屋銀平と名を変えて生きており、平家滅亡後頼朝に追われ大物の浦から出航した義経一行を亡霊の姿で復讐するというストーリーになっています。しかし、そこでも知盛は再び義経に敗れ、今度こそ海底に没しようと、碇綱を体に巻き付け、碇を抱えたまま海中に身を投じます。この壮絶な最期が「碇知盛」という彫刻のモチーフになっています。
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弓の名手として知られていた源為朝は保元の乱に敗れ、敗走中に捕えられた。死は免ぜられたものの弓が持てないように両腕の筋を切られて伊豆大島に配流された。しかし切られた筋は回復し、たちまち三宅島や八丈島など近隣の島々を次々従えていった。伊豆を治めていた工藤茂光の命に従わなかったため、嘉応2年(1170)朝廷命を受けた狩野介持光の軍船に攻め寄せられた。為朝は岩上に立ち岸から三町ばかりの所に近づいた先頭の船に狙いを定め、大弓を引き絞り大鏑の矢を放つと、矢は見事船の腹を貫き浸水して乗っていた兵もろともに沈んだ。たった一矢で沈めたので「為朝の強弓」と、後世にまで語り継がれている。
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鎮西八郎為朝の強弓
(ちんぜいはちろうためとものこわゆみ)
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桜の木に赤誠を記す中心高徳(桜の木にせきせいをしるす
ちゅうしんたかのり) |
元弘の乱で敗れた後醍醐天皇が隠岐に流される途中、勤皇の志篤い備前児島の住人児島高徳は、天皇の御身を奪い返さんと備前船坂峠にて待ち伏せするが一行は高徳の予想した経路を外れ、播磨国今宿を通り美作国院庄に向かってしまった。遅れを取った高徳は急ぎ追いかけるも杉坂峠に着いた時には、既に天皇は行在所に入ってしまった後だった。行在所とは、天皇の宿所で、この時は作楽神社(さくらじんじゃ)におかれていた。奪回を試み、高徳は一人行在所に潜入しようとしたが、警備が厳しく後醍醐天皇に近づくことはできなかった。せめて志だけでも伝えようと、行在所正面の桜樹の幹を削って「天莫空勾践時非無范蠡」と書きつけて立ち去った。これは、中国春秋時代の越王・勾践の故事に因んだ詩で翌朝これを見た後醍醐天皇は、ひとり勇気づけられ微笑んだという。中国の故事に造詣の深かった天皇のみがこの詩の意味を理解し他は誰一人解らなかったのである。高徳は天皇を勾践に、自身を范蠡に見立てて「必ずお救いにまいります。」と伝えたのである。
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ある日、牛若(源義経の幼名)が笛を吹きながら五条大橋にさしかかった時、1人の僧が立ちはだかった。この僧こそ武蔵棒弁慶であり、千本の名刀を集めて金に換え、これを自ら炎上させてしまった、播磨国姫路の書写山円教寺の堂塔再建費に当てようと考えていた。そして、この日が丁度千本目であった。太刀を奪おうと弁慶は長刀を振り回して牛若に斬りかかるが、牛若は橋の欄干を飛び渡り巧みにこれをかわした。牛若に翻弄され続けた弁慶は最後には打ち負かされ、ここに主従の契りをたて、以後衣川の戦いで義経とともに討ち死にするまで献身義経に仕えた。ちなみに現在の京都松原通りの松原橋が当時の五条通りの五条大橋である。
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五条大橋(ごじょうおおはし)
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