津田天満神社概要
津田天満神社の歴史
重文「絵巻津田本」
恒例行事
本年度秋祭日程
「千灯」について
だか(猿田彦)とは
「だてぼし」とは
「構屋台」詳細
「加茂屋台」詳細
「今在家屋台」詳細
「思案橋屋台」詳細
秋祭り動画
古い時代からこの辺に大歳神社を奉祀するが、その創建年代は不詳である。
位置の推測 中地南町46番地先が中地天満社の元の位置(現在 中央南北大路に記念碑)で中地天神遺跡がある。
この地は正北の北極星に向い、広峰山と重なる位置である
。
現在の津田天満神社付近(当時は海岸)に広峰神社の一の鳥居があったといわれている。
(英賀には『風土記』編纂の頃には英賀神社を祀る)
901年
(昌泰4)
菅原道真公(菅公)は讒訴により太宰権帥に左遷される1月、
その時に当地を経由された伝説が残っている
。
903年
(延喜3)
菅公が薨去される2月25日。
その後、菅公の徳を慕い、天満自在天神への信仰が全国的に広がる。天満宮安楽寺、北野天満宮の建立など
。
当地津田の里(構村、加茂村、今在家村)においても、氏宮大歳神社に天神を合祀して、天神が主神となる
979年
(天元2)
津田天神への信仰は高くなり、64代圓融天皇の勅宣により、本社ならびに末社40社を現在地に造営し、津田の庄を社領とする。
1002年
(長保4)
65代花山法皇が書写山へ御幸の際、津田の細江に上陸して国司や郡司が出迎えて、当社に参詣される。
11世紀に作られた 『播磨記』の記事に、「「此の辺天満宮多しといえども 津田を第一とすぞ」と北条家寄付録に見えたり」とある。賀茂別雷神を合祀する
1042年
(長久3)
後朱雀天皇が古鐘を寄進される。
1181年
(養和元)
編集の『播磨国内鎮守大小明神記』飾東郡26社の内に津田大歳大明神の記載がある。
総社「射楯兵主神社」の境内播磨総神殿の飾東郡の殿内に祀られている。
12世紀末~
13世紀
北野天神縁起絵巻が作成される。根本縁起(承久本)(国宝)、 弘安本など。
1298年
(永仁6)
藤原親泰が永仁6年の奥書のある
「北野天神縁起(津田本)(国指定重要文化財)」
を
奉納
する。同年社殿を改築する。
1333年
(元弘3)
96代後醍醐天皇が隠岐から還幸の時、書写山および当社に参詣される。
14世紀中頃
赤松則祐が社殿を改築する。
1441年
(嘉吉元)
同年銘入りの社宝
「木製太鼓(太鼓形酒筒)(姫路市指定文化財)」
が現存する。
1444年
(文安元)
英賀城主三木通武が当社へ田3反歩を寄進する。
1580年
(天正8)
羽柴秀吉の英賀城攻めで、社殿が延焼する(1月) 古文書などが焼失したが、天神絵巻と木製太鼓などは難を逃れる。「めうかんし」から救出した薬師如来を祀る。
1624年
(寛永元)
藩主本多忠政が、船場川と飾磨津を結んで宮堀川を作る
。
津田の港の機能が更に衰退する
。
17世紀
社宝の掛軸2点を奉納する。
「綱敷束帯天神像掛軸」 (1幅船と松に藤をあしらった珍しい構図)
「津田の細江の名所景観図掛軸」 1幅(菅公の御歌2首が記載されている)
1746年
(延享3)
同年銘入りの木製衝立(表
六歌仙
、裏
源頼光の鬼退治
)を奉納する。
18世紀
社宝「綱敷天神像版木(木製刻画)」を奉納する。
1760年
(宝暦10)
『寺社明細帳』の記事。当社の社地 東西16間 南北18間。観音木造1体 薬師如来1体。
1802年
(享和2)
狛犬1対
を奉献する。
東側願主 大坂西高津住(桜井屋清兵衛)
西側願主 大坂唐物町住(八幡屋忠兵衛)
1813年
(文化10)
石鳥居を建立する(現在は馬場先)
1818年
(文政元)
願主大坂講中の銘がある延石が、大鳥居の北の玉垣内の燈籠の北側にある。
この頃当社を含む近隣の村々で、
秋祭りの神賑わいに屋台練りが始る。
1827年
(文政10)
石燈籠1対を今在家村有志が大鳥居の北、玉垣の内に奉献する。
1830年
(文政13)
手水鉢を願主何某が奉献する。
明治初年
神仏分離令により、当社の薬師如来を分離して、今在家1006番地に薬師堂を建てて祀る
拝殿の屋根を修理する。
1874年
(明治7)
1874年(明治7)の状況(昭和13年発行『兵庫県神社誌』)
村社・・・祭神(菅原道真公、大歳神、賀茂別雷神)
例祭日10月8日、(境内1421.36坪 本殿7.75坪 幣殿6.0坪 拝殿25.0坪 氏子420戸 )
1889年
(明治22)
市町村制度実施により、神社の所在地が飾磨郡津田村構になる(4月1日)
1900年
(明治33)
本殿大床の
随身
を奉献する。
東側 今在家出身で大阪在の荒木力蔵
西側 今在家荒木小七郎 大阪 同力蔵
大阪 同力松 姫路 大野祐次
1902年
(明治35)
菅公壱千年大祭を斉行する。 御旅所へ渡御、三種の神器を今在家有志が奉献する。
1903年
(明治36)
石燈籠1対(拝殿前)を兵庫 中沢利助が奉献する。
1907年
(明治40)
秋祭りの屋台練りを休む。
1910年
(明治43)
百度石を大阪の山本清三郎、山本國次が奉献する。
1915年
(大正4)
秋祭りの屋台練りが復活する。
1917年
(大正6)
大標柱1対を岩崎精一郎、岩崎清次郎が奉献する。
神牛
(東側)および春日燈籠31体を今在家氏子が奉献する。
手水舎建設 今在家出身の大阪、神戸在住者53人が奉献する。
1918年
(大正7)
神牛
(西側)を加茂村氏子が奉献する。
1919年
(大正8)
海神社を今在家1044番地から拝殿の西に遷座する(7月)
藤綱稲荷神社を今在家氏子有志が拝殿の東に建立する(9月)
神宮遥拝所の玉垣を中川仲次、中川松之助が建設する。
1920年
(大正9)
厳島神社を構氏子が広島県の宮島から勧請する(2月)
弁天池の玉垣、標柱、石燈籠を建立する。
1924年
(大正13)
社掌の大塚熊太郎氏が辞任する(3月末日)
社掌に木村弥一郎氏が就任する(5月17日)
お旅所(思案橋50番地)に
「菅公小憩傳説地 兵庫県
」
の碑を建てる(5月)
1926年
(大正15)
神馬を今在家出身の大阪在住者9人が奉献する。
1928年
(昭和3)
菅公壱千二十五年大祭に大石燈籠1対を兵庫の中野与三松が神輿殿前に建立する。
1929年
(昭和4)
北野天神縁起(津田本)
を魚住惣五郎博士が「重要美術品の価値」と鑑定する。
大石燈籠1対を馬場先に今在家氏子有志が奉献する。
社号碑を今在家氏子有志が奉献する。
1930年
(昭和5)
従前の鳥居を馬場先へ移し、
大鳥居
を加茂氏子有志が建立する(8月)
1933年
(昭和8)
津田村が飾磨町と合併のため、津田小学校を閉校する。(3月31日)
神社の所在地が飾磨群飾磨町構になる(4月1日)
津田村役場にあった楠木を境内に移植する。(拝殿東南の神木、平成20年、周囲3.2m)
忠魂碑を建立する。起工7月、除幕式(10月8日)
1934年
(昭和9)
下記の人から境内周囲の土地580㎡の寄付を受けて、境内を拡張する(11月15日)(敬称略 単位㎡)
東側北から 平野広造 195 檜山寅市 89
西側北から 中村伊之助 99 井上丈吉 112 高島長五郎 85
1935年
(昭和10)
北野天神縁起(津田本)を神戸市の大楠公六百年記念「神社史誌料展覧会」に出品する。
内務省宮地直一博士が「正に世に隠れた国宝的存在」と鑑定する(認定願提出 7月)
社務所を建設する 起工9月 落成10月8日
1936年
(昭和11)
内務省が北野天神縁起(津田本)を「重要美術品」に認定告示する(11月28日)
1938年
(昭和13)
北野天神縁起(津田本)を奈良国立博物館に寄託する。願い出(4月)県が許可(5月4日)
この頃春祭りの余興(構青年会のにわか芝居)(婦人や少女の舞台おどり)(芸能人の漫才、浪曲)
この頃境内に
うっそうと繁っていた松の大樹
が、松喰い虫で次々と枯れる。
1943年
(昭和18)
金属回収令で神馬を2月25日に、唐金製釣燈籠を3月5日に供出する。
お旅所に山部赤人の
歌碑「風吹けば・・」
を建立する。揮毫、文学博士尾上柴舟(9月26日)
1944年
(昭和19)
陸軍戦闘機
「飾磨市津田号」
を献納する(4月25日)
1946年
(昭和21)
飾磨市が姫路市等と合併して、神社の所在地が姫路市飾磨区構になる(3月1日)
社司木村弥一郎氏が宮司になる(6月23日)
1947年
(昭和22)
氏子会を設立する(7月25日)
1948年
(昭和23)
例祭、21年ぶりに神輿、屋台が御旅所へ渡御する。(10月9日)
1949年
(昭和24)
構氏子が大屋台を新調する。春祭りに練り出す。(4月24日)
1950年
(昭和25)
厄年会(数え42歳の男子)が春祭りの世話を始める。
余興、演芸、芝居、漫才、浪曲、映画など。夏祭りは神社役員が同様の余興を世話する。
(ともに昭和31年まで)
菅公壱千五十年大祭を斎行する(10月8日~10日)
1952年
(昭和27)
平野亀之助翁頌徳碑の除幕式を行う(5月17日)
宗教法人の登録を申請する。 認定6月18日
忠魂碑を再構築して除幕式を行う 7月24日
今在家氏子が大屋台を新調する
1955年
(昭和30)
思案橋土地区画整理事業が完了して、思案橋が構より分離して誕生する。
今在家の海岸沿いの土地と沼地(約2町歩)を神社名義にする(7月)
1956年
(昭和31)
村岡悦次翁の頌徳碑
の除幕式を行う(4月25日)
本殿を改築する 透塀を新設する。
中殿(祝詞殿、幣殿、舞殿)を改築する(起工7月5日)
砂持ち式(7月25日)、
正遷宮奉祝祭
(10月8日)
1957年
(昭和32)
辰田武右衛門翁の頌徳碑
除幕式を行う。
1959年
(昭和34)
秋祭りに屋台練りを諸般の事情で自粛する(~1967年)
社宝「紙本著色北野天神縁起絵巻(津田本)」3巻が国の重要文化財に認定される(12月18日)
1960年
(昭和35)
平野泰介氏の一族9名から、現参集殿付近の土地336㎡の寄付を受ける。
1962年
(昭和37)
お旅所に
菅公銅像の除幕式
を行う(3月25日)稚児行列を行う。
1963年
(昭和38)
赤人神社
を創建する(12月28日)
1964年
(昭和39)
赤人神社竣工式を挙行する(4月29日)
1965年
(昭和40)
祢宜の木村三郎氏が延末の大歳神社へ転居する。社務所が木村宮司一人となったので、三木シゲノ氏が住込む。
1967年
(昭和42)
秋祭りに屋台練りが復活する(1958年以来)
秋祭りの開催日を従前の10月8日、9日から同月9日、10日(体育の日)に変更する。
1970年
(昭和45)
宮司の木村弥一郎氏が逝去する(1月)
宮司に野口芳樹氏が就任する(3月16日)
氏子厄年会(男子本厄42歳)により、弁天まつりが復活する(4月25日)
この頃、境内の松(約40本)が、松食い虫により全滅する。
1971年
(昭和46)
お旅所に菅公の歌碑を建立する(2月25日)
1972年
(昭和47)
津田小学校が飾磨小学校から分離して開校する(4月1日)
1973年
(昭和48)
今在家氏子が子ども屋台を新調する。
1974年
(昭和49)
本殿の屋根を桧皮から
銅板に葺替
える。
1975年
(昭和50)
倉庫を播磨国総社より移築する。
1976年
(昭和51)
今在家氏子有志が
神馬を復元
し、唐金製大台燈籠1対を舞殿に奉献する。
1977年
(昭和52)
菅公壱千七十五年大祭を斎行する(10月)
奉賛事業として拝殿を大修理して屋根瓦を葺替える(8月)
郷土誌『津田の里』を発行する。 御輿2基を修理する。
1978年
(昭和53)
今在家氏子が獅子舞保存会を結成して、獅子舞奉納が復活する。
思案橋氏子有志が唐金製小台燈籠1対を本殿前に奉献する。
1979年
(昭和54)
今在家氏子が妻鹿から壇尻を購入する。
高田初男氏から馬場先の西の土地6.85㎡の寄付を受ける
1980年
(昭和55)
弁天まつり厄年会に、女子本厄(数え年33歳)が参加する。
1981年
(昭和56)
思案橋氏子が子ども屋台を新調する。
1982年
(昭和57)
海神社を元の位置からやや南に、藤綱稲荷神社を現参集殿の位置から海神社の南の現在地に、社殿を造営して遷座する(8月)
参集殿を社務所の北隣に建立する(10月)
1985年
(昭和60)
秋祭りをサンテレビで放映する。
1986年
(昭和61)
今在家氏子が大屋台を新調する。
1987年
(昭和62)
正月献燈(氏子崇敬者奉納の提灯数百灯を境内に飾る)で初詣客を迎えることが始まる。
1988年
(昭和63)
天皇陛下がご重態で、屋台練りを自粛する。
1989年
(平成元)
市制100周年記念事業(シロトピア)に今在家、加茂、構の屋台が出演して、大手前通や姫路城三の丸広場で飾磨浜の宮屋台3台、飾磨恵美酒宮屋台4台と競演する(5月4日)
中殿の屋根を葺き替える(6月完)
1991年
(平成3)
構氏子が大屋台と子ども屋台を新調する。
1992年
(平成4)
秋祭りについて、姫路ケーブルテレビ(WINK)が録画放送を始める。
神輿殿が竣工する(8月)
1993年
(平成5)
加茂氏子が大屋台を新調する。
1995年
(平成7)
阪神・淡路大震災が起こり、大鳥居、石燈籠、瑞垣の屋根瓦、忠魂碑が被害を受ける(1月17日)後日修復する。
2000年
(平成12)
体育の日が10月第2月曜日となったので、秋祭り開催日について協議する。
2001年
(平成13)
今在家氏子が壇尻を新調する。
2002年(平成14)
菅公壱千百年大祭の奉賛事業を行う。
境内の西の土地256.69㎡を購入する(敬称略 単位㎡)
寺内伊久子 77.0 井上作一 75.0
高島武郎・児島和子・瀬古妙子 104..69
境内の西側に玉垣を築き、赤人神社の西南に西門を新設する。
本殿の御扉、階を始め、拝殿向拝柱、御輿1基、赤人神社の瑞垣等を修理する。
境内を排水設備と土盛りで整備する。
菅公壱千百年大祭を斉行する(10月12日、13日) 構公園の行宮所。
津田天満神社概要
津田天満神社の歴史
重文「絵巻津田本」
恒例行事
本年度秋祭日程
「千灯」について
だか(猿田彦)とは
「だてぼし」とは
「構屋台」詳細
「加茂屋台」詳細
「今在家屋台」詳細
「思案橋屋台」詳細
秋祭り動画