屋台の乗子(太鼓打ち)が座る高欄の四面に飾られた刺繍装飾を高欄掛といいます。高欄掛で最も多い図柄は龍、虎、鯉、怪鳥の退治物で、中には鵺(ぬえ)退治・蜘蛛(くも)退治・鬼退治などが見られます。又、合戦物では宇治川の先陣争いや那須与一の扇の的などの源平合戦・富士の巻狩り・川中島の合戦などが多く見られます。高欄掛けの周囲には作品を引き立たせるため額縁と呼ばれる模様が刺繍されます。構屋台の高欄掛は縁取りに剣菱模様を配し、「隠岐次郎左衛門の怪鳥退治」・「加藤清正の虎退治」・「仁田四郎忠常の猪退治」・「八幡太郎義家の龍退治」の四つの退治物が刺繍されています。構の高欄掛けの制作は、川村刺繍の川村雅美氏です。
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隠岐次郎左衛門怪鳥退治(おきのじろうざえもんかいちょうたいじ) |
建武元年(1334年)の頃、紫宸殿(天皇の住居)の上に、怪鳥「以津真天(いつまで)」が飛来するようになった。「イツマデ、イツマデ」と不気味な鳴き声が、黒雲の中から響きわたった。評議の結果、隠岐次郎左衛門広有(おきのじろうざえもんひろあり)が退治する事になり、8月17日の月が輝く静かな晴れた夜、広有は怪鳥の出現を待っていた。やがて紫宸殿上空に黒雲がかかり、中から「イツマデ、イツマデ」と鳴きながら怪鳥が現れた。広有は弓を構えしばらく怪鳥を観察していたが、怪鳥が紫宸殿に下降して来たところで鏑矢を射放った。矢は見事にあたり、怪鳥は仁寿殿の軒にあたって竹台前に落下した。 |
国内を統一した豊臣秀吉は、今度は明国・朝鮮を平定しようと、二度にわたって(文禄の役・慶長の役)加藤清正ら諸大名を朝鮮半島へ出兵させる。清正軍は向かうところ敵なしで破竹の勢いで進軍し、京城を陥落させる等戦功を立てた。しかし、朝鮮半島では虎が日本軍を悩まし、清正の軍にも犠牲を出した。そこで清正は、頼朝公の富士の巻狩にならって虎狩りをおこなった。これが、加藤清正虎退治といわれる。
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加藤清正虎退治(かとうきよまさとらたいじ) |
仁田四郎忠常猪退治(にったしろうただつねいのししたいじ) |
建久4年5月、源頼朝は将士を率いて富士の裾野において大巻狩りをおこなった。頼朝に使えていた伊豆出身の猛将、仁田四郎忠常もこれに参加していた。ある日大猪が一頭、手負いのまま狩り出されて山の下めがけて猛進してきた。武士といえどこの勢いに押され、数名はその牙にかかったが、忠常は慌てることなく馬に乗って現われて、「不甲斐なきかな、おのおの方。」と叫んで猪に駈け寄り、擦れ違いざまに後ろ向きに飛び移り尻尾をつかんだ。猪は更に暴れて頼朝公の目前に迫るも、忠常は刀を抜いて一刀のもとに刺し倒した。頼朝をはじめ、将士一同は歓声を上げ忠常を称えた。 |
平安末期、今の佐賀県有田の白川の池に、黒髪山を7周半もする大蛇がすみつき、ふもとの住人を襲って苦しめていた。朝廷は当時、九州にいた弓の名手・為朝に退治を命じた。
為朝は地元の領主らと作戦を練ったが、神出鬼没の大蛇を捕捉できない。そこで若い娘を生け贄にしておびきよせることになり、没落した家の娘・万寿がおとり役に名乗り出た。
万寿を襲おうと現れた大蛇の頭に為朝の弓が見事命中し、退治は成功。万寿の家も再興した。
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鎮西八郎為朝龍退治(ちんぜいはちろうためともりゅうたいじ) |